「あなたの特別な人のために」異端の江戸切子アーティストが愚直に刻む、きらびやかな世界
1834(天保5)年、東京の下町で発祥したガラスの彫刻、江戸切子。職人の技術と精神は脈々と受け継がれ、時代の変化に合わせて表現の可能性は広がっています。若手作家の中でも根本硝子工芸3代目の根本幸昇さんは、業界では型破りな方法で江戸切子の未来を拓こうとしています。
東京の下町・亀戸の路地裏に佇むフレンチビストロ「ARBREVE(アルブレーヴ)」。照明を抑えた店内のバーカウンターに、瀟洒なグラスがずらりと並び、輝きを放っています。
日本の伝統的工芸品に認定されている、江戸切子のグラス。ほのかに色づいたクリスタルガラスに彫り込まれた繊細な文様と曲線が光を複雑に屈折させ、宝石のように華やかで透明感のある輝きを導き出しているのです。
このグラスの作家は、根本幸昇さん、34歳。東京都江東区にある根本硝子工芸の3代目です。
根本硝子工芸は、祖父の根本幸雄さんが1959年に設立。幸雄さんは創作活動にも力を入れ、2009年に黄綬褒章を受賞しました。息子で2代目の達也さんは難易度の高い「グラヴィール」という技法に長けた作家として名を馳せています。
その2人の名匠の技と感性を受け継いだ3代目の幸昇さんは、独特の妖艶な世界観を展開し、1点数百万円以上の作品も発表している気鋭の江戸切子作家です。
創作で掲げるテーマは「工芸から藝術へ」。その風貌も作風と同様に従来の江戸切子職人のイメージを覆すもので、漆黒のISSEY MIYAKEに全身を包み、アーティストとしての自信を漲らせています。
しかし、この店に作品が並べられるようになった背景には、人知れず地道な努力がありました。
いつか自分のお金で
2014年、祖父の幸雄さんが他界。「音楽活動をしながら流浪」していた当時25歳の幸昇さんは江戸切子の道に進むことを決め、根本硝子工芸に入社します。職人気質の祖父と父は、技や感性を極めることには心血を注いだものの、お金には無頓着で、賃加工(下請け)の仕事を大量に安く引き受けていました。
「2人とも生粋の江戸っ子で、『死ななきゃいいんだよ』という感じだったんですね。江戸切子職人として地位と名誉は確立していたのに、ふたを開けてみると家業は首の皮一枚でつながっているような状態でした」
とはいえ幸昇さんが即戦力になれるわけもなく、達也さんからの指導は文字通り「背中を見て覚えろ」のみ。父の背中越しに手もとを見つめる修行が始まりました。
まず「割り出し」というガラスの表面にカットの目安となる線を引く作業を、廃材を使って繰り返し練習しました。昼は賃加工を手伝い、仕事を終えてから工房にこもって練習に明け暮れ、深夜から明け方まで居酒屋でアルバイト。身体が悲鳴をあげ、倒れたこともありました。
江戸切子は、素材のガラスを回転させながら線を引く「割り出し」の後、ダイヤモンドホイールでガラスを削る「荒削り」、より細かいカットをする「三番掛け」、砥石でなめらかに仕上げる「石掛け」、研磨剤を使って光沢を出す「磨き」、仕上げの「バフ掛け」など、複数の工程があります。手作業に加え道具の扱いなど複雑な技術の習得が求められ、一人前の職人になるには数年から十数年かかるとされています。
幸昇さんは、基本的な伝統柄は彫れるようになったものの、作品として完成させるにはほど遠いと感じて行き詰まっていました。
そんな時、友人に連れられて訪れたのが「ARBREVE」でした。落ち着いた雰囲気と心づくしのもてなしに憧れ、「いつか自分で稼いだお金でここに来る」と目標を定めました。
ある日、スッと線が引けた
「『なぜできないのか』『どうしたらできるのか』を悩むことを一旦やめて、がむしゃらにやるだけだと腹をくくりました。そうやってとにかく数をこなしていたら、ある日、昨日まで引けなかった線がスッと引けたんです」
それは、英会話を学んでいたら急に話せるようになったり、ブラインドタッチを覚えたりする感覚に近い瞬間だったと振り返ります。その日を境に、カットの習得にも手応えを感じるようになりました。
初めてわずかな給料が入ったときに「ARBREVE」の扉をくぐりました。修行を始めてから1年半が経っていました。
特別な人に出してほしい
何度か通ううち、幸昇さんはオーナーの山之内昭人さんに声をかけました。
「僕がつくったグラスを置いていくので、自由に使ってください。ただ、もし店で使っていただけるなら、マスターにとって特別なお客様にだけ出してほしいんです」
山之内さんはこのときのことをよく覚えています。
「正直なところ江戸切子のことはあまり知らなくて古臭いイメージしかなかったんですが、彼の作品はカットが斬新で美しく、店に置きたいと思ったんです。通常は提供していませんが、価値がわかる方にはお出しするようにしています」
幸昇さんは、作品を使ってほしい人が訪れそうな飲食店に目星をつけては自腹で通いました。少し無理をして、ハイブランド志向の富裕層が通う店にも足を運びました。
経営者と顔見知りになり、職業を聞かれると江戸切子作家であると明かし、「特別なお客様のために使ってほしい」とグラスを置いていきました。やがて、グラスを購入したいという人と店を通してつながるようにもなりました。
家業を継ぐと決めてから、ずっと考えていたことがありました。
「賃加工の仕事だけでは、職人の未来を描けない。本物を求める人とつながり、作品の価値を上げることができれば、単価を上げられ、職人は楽になる。そのためには『あなたのためだけに』という特別なストーリーが必要です」
グラスを通して会話が生まれ、価値を見出す人に届く。つくり手とつかい手だけでなく、両者をつなぐストーリーを語ったつなぎ手も満足する。そんな前代未聞のビジネスモデルを自ら開拓していきました。
祖父が遺した素材で
職人歴3年となった2018年、東京・銀座であった江戸切子新作展に、幸昇さんは【憧れ】と題した作品を初めて出品し、初受賞を果たします。
父から「お前に扱うのはまだ無理だ」と言われた濃度が高い藍色の宙吹クリスタルの飾り皿は、祖父が工房に遺していたもので、両手で抱えるほど大きく重い素材でした。その難易度と、亡き祖父への思い、父への反発心が相まって「死に物狂い」でつくった作品だったことから、職人歴からすると型破りの100万円という高価格をつけました。「売るつもりもなかったから」。ところが、初日の夜に買い手が決まりました。
「よくも悪くも年功序列の業界ルールを破った出来事でした。キャリアも見た目も関係なく、本当にいいものをつくったら誰かの心に届くのだと、このときに確信しました」
その後、作品の世界観をつくり上げ、一点ものやオーダーメイドを中心に展開するブランド「幸昇-KOSHO-」を2020年に立ち上げました。
そんな様子をひそかに見守っていたのが、同じ江東区にある篠崎硝子工芸所の3代目、篠崎翔太さんでした。
ライバルから仲間へ
翔太さんの父英明さんは、幸昇さんの父達也さんとは2代目同士でしのぎを削っていたことから、3代目の2人も互いの存在を知ってはいました。翔太さんは大学時代に見習いを始め、卒業と同時に篠崎硝子工芸所に入社したため、年齢は1歳下でも職人歴では幸昇さんの1年先輩にあたります。
「自分がまだ出品したことのない新作展で幸昇さんが受賞し、しかも100万円で売れたと聞いて、『これは置いていかれるかも』と気が気ではありませんでした」
篠崎硝子工芸所の取引先は、百貨店が中心。ビジネスの贈答品としての需要が高く、上質な江戸切子の製造元として確固たる地位を築いていました。
「ザ・江戸切子としてのわかりやすいデザインと品質、篠崎硝子にしかできない繊細な技術が求められてきたため、篠崎として恥ずかしくないものをつくり続けなければならないという使命感がありました。幸昇さんとの出会いは、自分らしい表現を模索するきっかけになりました」
翔太さんは「江戸切子業界は、幸昇ブランドの確立を機に大きく変わりました」と話します。折しもコロナ禍で百貨店やインバウンドの需要が激減した時期。江戸切子の製造元は販路の開拓を迫られていました。
「それまでは業界内の評価がステイタスで、同業者はライバルとして緊張感のある関係性でした。販路の棲み分けが進み、職人が自分の色を出すようになると、情報共有しながら助け合う仲間としての関係性に変わってきました」(翔太さん)
江戸切子協同組合によると、2023年の江戸切子の職人数は約100人弱。高齢化や後継不足に直面し、現役世代には危機感があります。ただ、幸昇さんと翔太さんは、「日本の伝統工芸だから守らなければならないという意識はあまりありません」と語ります。「きれいごとでは守れないから」と。
こどもが憧れる職業に
幸昇さんは、翔太さんを含む若手作家に声をかけて有志10人のチーム「幸昇選硝」をつくり、2020年7月に東京・銀座で「江戸切子 未来を拓く"新十傑"展」を開催しました。
「企画したのは、僕を魅力的に見せたいという思いがあったからです」と幸昇さんは言います。
そのために、若手作家に声をかけて写真を集めてサイトのビジュアルをつくり、自ら毎日店頭に立ち、他の作家の作品の説明もしたのだといいます。「結果として売れたから、誰も損していないはず」
魅力的だと思われたい。それは個人的な感情にとどまらず、戦略的なブランディングの一環でもあります。
高価な江戸切子は、約7割が贈答品の需要だといいます。最終的に女性の手もとに届くことが多いため、女性を意識したセルフブランディングを心がけているのだと明かします。また後継について意識する中で、こどもたちが憧れる職業にしたいという思いもあります。
「工芸は、愚直でクラシカルなものづくりです。技術は素晴らしくても、狭くて汚い工房や、食べていくのも難しい働き方のイメージしかないと、『こどもたちが将来なりたい職業』にはなり得ません。華やかな世界観を美しく伝えていく姿こそ、見せていきたい」
つくりたいものをつくる
「僕にとって江戸切子は自分を表現するための最高のツールです。ただ、使う人の幸せが僕の幸せになるという前提があるので、つくりたいものをつくることに矛盾はないんです」
幸昇さんはいずれ、自ら江戸切子の店舗を持ちたいと語ります。翔太さんをはじめとする同業他社の作品をブランディングし、受託販売するためです。その夢を聞いた翔太さんは「つくりたいものをつくれる限り、江戸切子職人として生涯現役でいられると思う」と創作の意欲をにじませます。
「良いものを求めるつかい手」に「つくりたいものをつくる作家」の思いを丁寧に伝えていく。それが、およそ200年にわたり続いてきた江戸切子の価値をより高めていく切り札だと、幸昇さんは信じています。