B品を売っていた会社は倒産寸前。波佐見焼の「HASAMI」を手がけるマルヒロが大切にする、フレキシブルな工芸の形

難波寛彦

波佐見焼の陶磁器ブランド「HASAMI」で知られるマルヒロ。波佐見焼の食器やインテリア雑貨を企画している、工場を持たない陶磁器メーカーです。さまざまなショップでも見かけるHASAMIを手がける同社ですが、一時は倒産の危機に瀕していたといいます。家業であるマルヒロを継いだ3代目の馬場匡平さんに、HASAMI誕生までの物語や伝統的工芸品を受け継いでいくことへの思いについて聞きました。

レトロなカラーに絶妙なサイズ感、そして”ハサミ”の形を模したロゴ…。マルヒロが手がける波佐見焼の陶磁器ブランド「HASAMI」の食器の数々です。

2010年に誕生し、現在は有名セレクトショップなどでも扱われるなど人気を集めているHASAMI。しかし、経営が逼迫していた当時のマルヒロにとって、HASAMIブランドのローンチは起死回生の一手でした。

「今では会社を残してくれたことに感謝していますが、継いだ当時は本当にギリギリの経営状況だったんです」。そう振り返るのは、同社の3代目社長の馬場匡平さんです。

写真提供:有限会社マルヒロ

時代に翻弄された波佐見焼

400年以上続く伝統的工芸品である波佐見焼は、有田焼で知られる佐賀県有田町に隣接する長崎県波佐見町で生まれました。当時、同地を治めていた大村藩の藩財政は苦しく、武士など身分の高い層しか使う機会がなく希少だった陶磁器を大量に生産することで、波佐見焼は発展していったといいます。

その特性ゆえ、大量生産を得意とする波佐見焼は効率化された分業制が特徴。成形、型起こし、釉薬、窯焼きといった形で分業し、お隣の有田焼の下請けも担っていました。馬場さんの祖父が創業したマルヒロはそうした生産工程の中で、窯焼き業者からワケアリの”B品”を仕入れて販売する”ガサ屋”と呼ばれる業態でした。

露天商などにもB品をおろす仕組みを確立したマルヒロは、2代目である馬場さんの父が継いだ頃には百貨店のB品市などへも販路を広げます。しかし、バブル崩壊の影響で波佐見焼も生産の効率化が進み、マルヒロの主力商品だったB品が激減。さらに、2000年頃の産地偽装問題をきっかけに、波佐見町で生産したものは有田焼を名乗ることができなくなります。その後は正規品も扱うようになったものの、3代目の馬場さんがマルヒロを継ぐ頃には経営状況は悪化の一途をたどっていました。

史上ワースト3の業績

転機が訪れたのは、2009年の夏。奈良の老舗である中川政七商店の13代目、中川淳さんが執筆した書籍を父から勧められたことがきっかけでした。『奈良の小さな会社が表参道ヒルズに店を出すまでの道のり。』と題された同書に書かれていたのは「自分たちが培った技術を他産地に」という言葉。その言葉に感銘を受けた馬場さん親子は、中川さんにマルヒロのコンサルティングを依頼しようと思い立ちます。

「当時付き合いがあった中川政七商店の地方営業さんに父が尋ねたところ、中川さんに繋いでもらうことができました。中川さんからは『直近3期分の決算書を持ってくるように』と言われましたが、その決算書に記載されていたのはマルヒロ史上ワースト3の業績(笑)。父は『これでは受けてもらえないかも…』と心配していましたが、奈良の本店を尋ねた翌日には電話がきて、2年契約でコンサルティングを受けてもらえることになったんです」

現在では日本各地の産業のコンサルティング事業を行っている中川政七商店ですが、当時としては初の試み。馬場さんは、13代目の中川淳さんご本人に手がけてもらったことも幸運だったと話します。

「奈良の本店での打ち合わせでは、父が『あとは息子とお願いします』と中川さんに話し、そこから口出ししてくることはありませんでした。ある意味、父に乗せられるようにしてスタートした取り組みでしたが、翌月からすぐに具体的な戦略を練り始めることになります」

馬場匡平さん
馬場匡平(ばば・きょうへい)/ 有限会社マルヒロ 代表取締役社長
1985年、長崎県波佐見町生まれ。福岡の流通専門学校を卒業後、インテリアショップやアパレルショップの店員、パン屋、エレベーターの設置などを経て、23歳の時に家業である有限会社マルヒロに就職。
写真提供:有限会社マルヒロ

倒産寸前というギリギリの経営状況だったため、販売システムの構築や原価率の計算から始めるなど、中川政七商店のコンサルティングによって一から再スタートを切ったマルヒロ。当時20代前半の若者だった馬場さんは「焼き物でブランドを?」と最初は懐疑的だったといいますが、中川さんから出されたブランド哲学に関する宿題をこなし、初めて図面を引いたり、近所の型起こし業者で勉強をしたりと、少しずつ焼き物への知識も深めていきました。

とはいえ、馬場さんにとって焼き物はあまりにも身近な存在。実家の倉庫に行けばいつでもあるものだったため、これまでに買ったことがなかったのです。そこで、勉強のために取手付きの器を大量に買ったり、地元の人たちに使いやすさの感想などを聞くなど、消費者目線でも焼き物への理解を深めていくことに。さらに、ペルソナ(経営上の顧客像)は「食器には興味がない」「音楽やファッションが好き」など、馬場さんの友人など身近な人を想定しました。

その結果、スタッキング(重ねやすい)できるものがいいなどの意見をふまえ、リブランディングの要となるアイテムは、「60年代のアメリカのレストランで使われていた大衆食器」をイメージしたマグカップとすることに。収納が少なく狭いキッチンに置いたままでも映えるカラーやサイズ感など、若者世代が気軽に使うことができることも重視したといいます。

写真提供:有限会社マルヒロ

トレンドも追い風に

こうして、満を持して2010年6月に発表されたHASAMI。考え抜いてつくり上げたブランドだけに評判は上々…と思いきや、出だしは順調ではありませんでした。

「京都で行われた中川政七商店の内覧会に出品したのですが、来場者に『おもちゃみたい』『こんな色では食欲が出ない』と言われてしまったんです。その時はやりきれない思いだったのですが、そのすぐ後に東京で行われた中川政七商店の内覧会やインテリアライフスタイル展では、京都での酷評が嘘のように好評をいただきました。各地の業者やメディア関係者との名刺交換が相次ぎ、HASAMIを取り扱ってもらえるようになりました」

2010年代は、雑貨などを中心としたライフスタイルショップのブームが起こった時期。雑誌などでも工芸に関する特集が増え、400年以上の歴史と技術を持つ波佐見焼が注目されたこともあり、知名度の上昇とともに取り扱いも急激に増えていきます。

また、ブルーボトルコーヒーなど、いわゆるサードウェーブコーヒーの台頭で、マグカップに直接サーブするスタイルへの注目が高まったことも追い風に。元来、マグカップ生産の分野には弱かった波佐見焼ですが、時代とタイミングに合わせて発表できたことは大きかったと馬場さんは話します。

HIROPPA/ Kenta Hasegawa

場所と人を大切する地域貢献

HASAMIの成功によって、倒産の危機から見事にV字回復を達成したマルヒロ。2021年、同社は創業の地でもある波佐見町に「HIROPPA(ヒロッパ)」と名付けた私設公園をオープンさせました。その背景にあったのは、馬場さんの「街が残らなければ意味がない」という思いです。

「マルヒロでは、『我が街に多文化を』を社訓にしています。僕一人の意見だけではなく、会社や関わる人それぞれが好きなものを、マルヒロを通して伝えていってほしいと考えているからです」

HIROPPA
HIROPPA/ Kenta Hasegawa

工芸の敷居を上げず、かしこまらないことを意識したというHIROPPA。シームレスで開放的な敷地内には直営店もあり、どこか堅苦しい従来の焼き物屋のイメージを払拭した店舗となっています。公園では音楽ライブなどのイベントも開催し、世代を限定せずラフに訪れることができる空間が印象的です。

「都会に出なければ何もできないと考える若者世代にも興味を持ってもらい、少しずつ波佐見町に人が増えていったら、『焼き物をやりたい』と考える若い人も出てくるかもしれない。場所と人がなければ、ものは作れないんです。ひとりよがりかもしれませんが、そうした敷居を上げない工芸を続けていくことが、地域への貢献にもつながると思っています」

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著者
難波寛彦
大学卒業後、新卒で外資系アパレル企業に入社。2016年に入社した編集プロダクションで、ファッション誌のウェブ版の編集に携わる。2018年ハースト・デジタル・ジャパン入社。Harper's BAZAAR Japan digital編集部在籍時には、アート・カルチャー、ダイバーシティ、サステナビリティに関する企画などを担当。2023年7月ハリズリー入社。最近の関心ごとは、学校教育、地方創生。
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