茨城・月の井酒造店の名杜氏、石川達也さんが目指す「狙わない」酒造りとは【前編】 #職人の手もと
科学技術が飛躍的に発展した現在も伝統的な酒造りにこだわり、江戸時代と同じ製法でお酒を造り続ける杜氏(とうじ)がいます。あえて伝統的な製法にこだわる理由とは──。
「日本酒は造り手の腕でつくるものではなく、天からの授かりものなんです」。そう語るのは、杜氏として初めて文化庁長官表彰も受けた月の井酒造店の杜氏・石川達也さん。伝統的な日本酒造り製法である「生酛(きもと)造り」で酒造りをしながら、広島杜氏組合長として広島の酒にまつわる古い文献の復刻にも力を注いでいます。
なぜ科学技術が発達した今でも、わざわざ時間をかけて古典や過去の文献を紐解き、伝統的な製法を受け継ぐことにこだわるのか。その背景には、先人が築いてきた知恵としての伝統に対する深いリスペクトと情熱がありました。
「伝統」は箔付けのためのものではない
生酛造りは、江戸時代に主流だった伝統的な製法です。明治時代末期に「速醸(そくじょう)」という製法が生まれてからは生酛造りを行う蔵は減りましたが、最近になって改めて注目されるようになりました。
世界的にナチュラルワインの人気が高まっているように、日本酒でもより自然な、手造りの酒を求める人が増えてきました。そこで注目されたのが、伝統的な製法である生酛造りです。
しかも生酛造りには江戸時代から続く200年あまりの歴史がありますから、「伝統」という箔も付きます。しかし伝統技術はそれ自体に価値があるのであって、商品を売るために伝統的な製法で造ろう、というのは順序が逆ですよね。
伝統的な酒造りを担う人間として、「伝統とは何か」とたびたび考えます。私が思う伝統とは、ただ古いだけではなく、普遍的であることです。どの土地でも、どの時代でも通用するもの。この先の100年も変わらない価値を持っているだろうと予測できるものです。
では逆に、「新しい」とは何か。一般にイメージされるのは流行を追うこと、これまでなかったものを生み出すことかもしれません。しかし、そのときは新しく感じられたものも、次が出て来れば一瞬で古くなってしまいます。新しさを感じて飛びついても、そのときにはすでに古いものになりはじめているのです。
本当の新しさとは、一瞬先にくるものを自ら予測する、次に評価されるものの価値を先に見出すことではないでしょうか。そして次に何が評価され、価値あるものになっていくかを知るためには、逆説的なようですが、伝統や古典を学び、これまで蓄積されてきたスタンダードを知らなければなりません。
たとえばIT産業はまだ生まれてまもない分野ですから、過去の蓄積から未来のスタンダードを予測するのが難しい。今価値があるとされている技術が、100年後にも通用するのかを判断するための手がかりが、非常に限られている分野だと思います。
そこでいくと酒造りは、千年以上かけて先人たちが試行錯誤し、流行ったり廃れたりした歴史があるわけです。この蓄積を通して見れば、そのやり方が一過性のものなのか数百年後にも残っていくものなのかが、ある程度予測できるようになります。
私はただ古いものを守るために伝統的な酒造りをしているわけではありません。学べば学ぶほど、生酛造りは理にかなった素晴らしい技術であるとわかります。古いからいいのではなく、いいものだから長く残ってきた。その価値を次は私たちが後世に残していかなければなりません。
酒に失敗はない
伝統的な酒造りは、「まっとうに酒にするための技術」です。現代のように空調も機械もなかった時代に、腐らせることなく飲める酒を造るための技術が詰まっているのです。だからその製法に沿ってつくれば、飲めない酒になるといった失敗はまずありません。
そもそも、「酒に失敗はない」というのが私の信条です。たとえば生まれてきた子どもがどんな子であろうと、命そのものに優劣はありませんよね。命が宿り、無事に生まれてきてくれたということに価値がある。それと同じで、酒もきちんと酒として出来上がり、命が宿っていれば、そこに失敗はない。甘いとか辛いといった味の優劣で成功や失敗があるわけではないと思うのです。
こうした考えから、私は酒を仕込む前に出来上がりの味や香りを決める酒質設計もしません。酒質設計は酒の味を決めるための設計図のようなものなので、これをつくらずに酒を造っている杜氏は珍しいと言われます。
でもどんな味の酒になるかは、人間ではなく天が決めること。これも子どもと同じで、酒は「授かりもの」だと思っています。
しかしそれは、何もせずじっと待つことではありません。杜氏や蔵人は自らの手で酒を生み出す存在ではなく、酒が生まれる壮大なプロセスの中の一部分なのです。微生物が力を発揮できるように環境を整え、酒に命を宿すために力を尽くすのが、私たち人間にできること。
だから酒は授かりものという考え方と、酒造りのプロセスに手をかけることは、決して矛盾しないのです。
酒造りには「造」という漢字を充てますが、漢字学の泰斗である白川静先生の説によれば、「造」の字には祈りを込めてつくるという意味があります。日本酒はまさに、授かるようにと祈りながらつくるもの。昔の人が「作る」ではなく「造る」の字を充てたのも納得です。
日本酒の原料となる米や水の状態は毎年変わるし、気候条件が違えば酵母の働きも変わります。毎年同じものを造っていても、出来上がった酒にはその時の個性が宿る。同じ両親から生まれて同じように育ってもきょうだいで違う個性があるように、酒にもその年ごとに個性が出るのです。
そして一人一人個性の違うきょうだいでもなんとなく「あの家の子」とわかるように、お酒もひとつひとつの味わいは違っても「あの蔵で造られた酒だ」とわかる特徴が生まれていきます。これが蔵の個性です。
でもその個性は、自分でわかる必要はないんです。むしろ「これが自分の特徴だ」と言語化してアピールするのは、個性ではなく演出です。他との違いは、周りの人が自然と感じ取ってくれればいい。自覚なく滲み出てしまうものこそが、個性なのですから。
狙ったら外れる
酒の個性について考えさせられるのは、日本酒の質を評価するために毎年開催されている鑑評会(全国新酒鑑評会)ですね。蔵の評価がかかっていますから、当然その蔵で一番いい酒が出品されています。しかし鑑評会での評価は減点方式ですから、必然的に同じような味の酒に向かっていくんです。
つまり「正解」の味があって、そこにどれだけ近づけられたかを競う状態になってしまっている。これでは酒の個性は発揮されません。 蔵で一番いい酒として出品されたものが、一番個性が感じられない味に仕上がってしまうなんて、もったいないと私は思うんです。
近代の酒造りは、いかにクセをなくすかに主眼が置かれてきました。日本酒が出来上がる過程で自然と発生する独特の香りも「オフフレーバー」として取り除き、クセがなく口当たりが良い味を追求してきたのです。さらに最近は甘みのある酒が人気なので、どこも麹菌選びや発酵のコントロールによって甘みを引き出す工夫をしています。
要するに、すっきりした口当たりで、甘みが感じられるのが今の「いい酒」。でもその正解を突き詰めていくと、わざわざ酒造りの工程にのっとって苦労せずとも、酒が出来上がった後に好みの味をつければいいんじゃないかという話になっていきます。そうなったら、個性なんてものは完全になくなってしまいますよね。
私の人生訓は、「狙ったら外れる」。売りたいからと売れる味に寄せていくから、他と差がつかず売れなくなってしまうんです。
なかにし礼さんの「長崎ぶらぶら節」という作品に、こんな一節が出てきます。
“上手く歌おう、良い人に思われよう、喝采を博そう、そういう邪念が歌から品を奪う”
これは酒造りにも通じると思います。酒も芸能も、元を辿れば神に奉納するものですから。
嗜好品ではなく、必需品としての酒を造る
今は日本酒が売れない時代ですから、すぐに「海外で売ろう」という発想になります。でも考えてみれば、もともとは地元で飲まれていた酒が地元で飲まれなくなって、東京に出て行ったけどそのうちまた東京でも飲まれなくなって、じゃあ次は海外だ、となっているわけですよね。海外でも飲まれなくなったら、次は宇宙に行くしかなくなってしまいますよ。
売れる場所を探して彷徨う前に、まずは「なぜ飲まれなくなったのか」に真摯に向き合わなければなりません。生きるために必要なものをつくっていれば、売れなくなるなんてことはありませんから。だから私はいつも「嗜好品ではなく必需品としての酒を造らなければならない」という話をしています。
私が思ういい酒の基準は「生きる力が湧くこと」。
まず、私たちが生きるためには「食べる」という行為が欠かせません。食事と一緒に飲むことでおなかがすく、食欲を高める酒は、人の生きる力を引き出していると言えます。だから「いい酒はおなかがすく」と私はいつも話しています。
もう一つは、人と話したくなる、集いたくなる酒であること。人間は社会的な動物ですから、集まって話すことが生きる力になります。そして人が集う場に酒があることで、より円滑にコミュニケーションができる。
その結果、個人としても集団としても生きる力が湧き、社会が円滑にまわっていく。だから本来、酒は人間社会において「必需品」なのです。
しかし、今は味の訴求によって自ら嗜好品になってしまっています。おいしい酒を造ることを追求するのはもちろん大切なことですが、味を楽しむ嗜好品としてではなく、社会に必要不可欠な存在として、もっと本質的なところから考えた酒造りが必要なのではないかと思っています。
海外に売り込む際も同様です。海外で日本酒を提供する際はワイングラスに冷やした酒を注いで出されることが多いですが、それでは相手の文化の土壌に乗ることになってしまい、ワインの代替品としてしか評価されません。
酒器のバラエティが豊富でそれぞれ風味や口当たりが変わること、さらに温度を変えても楽しめることは日本酒ならではの魅力です。楽しみ方を含め、日本酒を取り巻く文化ごと紹介することが、本当の意味で日本酒を広めることではないでしょうか。
外国の方でも、日本酒好きは自分の酒器を持参してくる人もいます。外国人だからワイングラスに入れて出した方がいいだろう、と考えるのは本当に日本酒が好きな方に対しては失礼なことでもありますよね。彼らは日本酒本来の楽しみ方を知りたいわけですから。
日本酒に限らず、お酒はその国の生活文化と密接に結びついています。表面的な味の良し悪しだけではなくて、歴史や文化も内包しているからこそお酒の世界は面白い。
もちろん、私の思ういい酒がその時代に人気の味と合致するかどうかはわかりません。しかし、トレンドの味は変わっても、酒の造り方自体は何百年も変わることなく受け継がれてきました。
嗜好品としての酒を造るだけなら、上辺の知識だけでも可能です。でも生命力が宿るような「いい酒」は、製法だけではなく先人の知恵と精神すべてを理解し受け継いではじめてできるものです。
せっかく先人たちが数百年をかけて築き上げてきた資産があるのだから、それを学び活用しないのはもったいない。伝統的な酒造りとはただ古い方法にこだわるのではなく、ここまで受け継がれてきた意味を知り、その知恵を生かしてこそ意味があるのだと思います。
後編はこちら
「狙わない酒造り」「酒に失敗はない」など、独自の哲学をもって酒を造り続ける石川杜氏。一見すると非効率で面倒に思える工程も、その背景には先人たちの知恵と精神が宿っていると語ります。後編では、「芯のあるものづくり」をするための伝統技術との向き合い方について伺いました。
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