お客さんが来なくて済むヘアサロンに。コスパと無縁の美容師、カット料金を値上げした理由
ヘアサロンの初来店割引が当たり前となった今、時代に逆行する高めのカット料金を設定している美容師がいます。東京・代官山の「TRICO ANTIQUE(トリコアンティーク)」のオーナー、谷口香代さん。価格の値上げに、常連客から不満の声はなかったといいます。独自の理念のもとに進めるヘアサロン経営とは。
「初回20%オフクーポン」「新規3000円オフ」など、ヘアサロンが初来店の客を優遇するのは予約サイトでは当たり前。ところが、東京・代官山のシェアサロン「TRICO ANTIQUE(トリコアンティーク)」のオーナーである谷口香代さんはその逆です。新規の客は価格を高めに設定しているうえ、2023年3月にはリピーター客のカット料金も値上げしました。
総務省の小売物価統計調査によると2022年、ヘアカット1回の全国平均金額は3643円。谷口さんの場合、新規は11000円、リピーターは8800円で、相場よりかなり高価格です。
価格を上げた理由は、3つあります。「もちが良く、カットの回数が減るから」「技術が向上し続けているから」、そして「ひとりひとりに丁寧に施術したいので、1日の予約人数を制限しているから」。
1000円でもヘアカットができる時代にあえての値上げ。しかし、お客さんからネガティブな反応はなく、むしろ賛同する声がほとんどだったそうです。谷口さんと、長く通っているお客さんの話から、その理由を紐解きました。
東京・代官山にサロンを構えて24年ほどになります。当時はまだ高校生だったお客さんがいまは結婚して奥さんとお子さんを連れてこられるなど、長く担当させていただいている方もいます。
ここはもともと普通のマンションでした。和室の畳を自分ではがし、材木屋で買ってきた木材を床に敷いて手づくりしたサロンです。振り返れば、ゼロからここでスタートし、どん底も経験しました。
それでもお客さんのおかげで今があるので、恩返しをしたい思いが私の軸にあります。私にできるのは、お客さんの髪の悩みを解決して、満足していただくこと。その一つの方法として、もちのいいカットをして、できるだけサロンに来なくて済むようにすることを目指しています。
もちろん、リフレッシュするためにサロンに来店いただくのは大歓迎です。でも、忙しいときに義務感で「行かなければならない場所」にはしたくありません。
お客さんがサロンに来る回数が減れば、お客さんの時間やお金や労力を守ることができます。そして、サロンに来ない間もお客さんがずっときれいな自分でいられるのが、美容の本質だと思うからです。
おにぎりはパーマ液の味
私の母は、大阪で美容室を開業していました。1階が美容室で、2階の住まいに2人で暮らしていたので、朝から晩まで働く母の姿を幼い頃から見てきました。
お客さんは主に近所の主婦たちで、「大阪のおばちゃん」の代名詞とされるパンチパーマのような髪型でした。素手でパーマをかけるので、母が握ったおにぎりはいつもパーマ液の味がしました。
小学生になると、平日の夕食の買い物は私の担当になりました。土日や長期休みは店を手伝うので、友達と遊ぶこともできませんでした。
母は私に美容室を継いでほしかったんでしょう。「高校を卒業したら、美容の専門学校に進学するように」と母からは言われていましたが、美容師の仕事にいいイメージを持てませんでした。そこで、美容師免許さえ取得すれば好きにしていいという約束を取り付け、高校の友達と一緒に大阪の美容学校に進みました。
美容学校には、関西の各地からとびきりおしゃれな子たちが集まっていました。友達からファッションやメイクを教わる毎日は刺激的で、「美容師っておしゃれな職業だったんだ」と初めて知りました。それから美容を学ぶことが一気に楽しくなって、卒業後は母の美容室を手伝いながら、大阪モード学園の夜間にも1年間通いました。
その後、海外でも学びたいと思い、イギリスへ。日系のサロンで働きながら、ヴィダルサスーンアカデミー、トニーアンドガイアカデミーなどに通いました。
1年後に帰国する際、「せっかくイギリスで新しい感覚を覚えたのに、またパンチパーマをかけるのは嫌だ」と思い、大阪には戻らず東京に行きました。母から自立するにはこのタイミングしかない、と逃れるような思いでした。
朝から晩までやることがない
東京では友達の家に居候しながら働く場所を探しました。雑誌で見て気になっていた代官山のサロンに何度も電話をかけて、「どうしても働きたい」と熱弁して入れてもらいました。
オーナーからは「お客さんがついていないスタイリストには厳しいと思うよ」と最初に釘を刺されました。
一般的には、駆け出しの美容師はまずどこかのサロンにアシスタントとして入り、受付や掃除、シャンプー、パーマやカラーの補助をしながら先輩スタイリストの技術を見て学びます。
ですがそこのサロンは、当時まだ珍しかった出来高制でした。フリーランスのスタイリストに場所を貸し出すシェアサロンはここ数年で増えてきましたが、その先駆けのようなお店だったんです。アシスタントを雇っていなかったので私は最初からスタイリストとして入ったんですが、オーナーが言ったとおり朝から晩までお店にいてもやることがないんです。
基本給があるわけではないので、お客さんがつかなければ収入になりません。たまに先輩からお客さんを譲ってもらってようやくカットできるくらいで、あとの時間はボーッとしていました。
出来高制なのに出退勤の時間は決まっていて、ミーティングへの参加も必須でした。売上の50%をサロンに納めるルールも、他の店を知らないのでそんなものだろうと思っていました。差し引くと、最初の月の収入は3万円、2カ月目は7万円でした。
そこで「お客さんを連れてくるために、外に出て営業活動をさせてほしい」とオーナーに申し出ました。昼は代官山、夜は渋谷に出て、古着を着こなしているおしゃれな若者に声をかけて終電の時間まで名刺を配りました。
10人に渡したら1人か2人はお店に来てくれました。来てくれた人には、お礼やお手入れの説明を丁寧に手書きしたハガキを出しました。するとハガキで返事がきて、文通に発展したこともありました。
出来高制は自由度が高い一方、雇用も収入も守られていない厳しい世界です。お客さんと信頼関係を築いていく大切さと、フリーランスのスタイリストが働きやすい環境づくりを、このときに学びました。
1時間半かけて訪れる人も
2年目で独立を考えるようになり、1998年に同じ代官山エリアのマンションの一室を借りて、いまのサロンをスタートしました。
母から100万円を借りましたが、敷金と礼金を払うとほぼなくなってしまったので、内装はDIYしました。畳をはがし、押入れの段をはずしてペンキを塗り、鏡をぶら下げて。最初はシャンプー台もなく、普通の椅子に座ってもらっていました。お客さんが訪れるたびにお店が変わっていく様子に驚いていたのを覚えています。
代官山にあるサロンは、遠方から電車で来てくださる方がほとんど。1時間半もかけて来られる方もいるので、来てよかったと思ってもらえるような技術や時間や空間を提供することを使命のように感じています。
だんだんお店が軌道に乗ってくると、フランスに行ってアンティークの家具を買い付け、お客さんが日常を忘れられるような空間づくりを目指しました。
その頃に結婚し、2012年に出産しました。数カ月ほどサロンに出られなかったため、代わりに私のお客さんを担当してくれるスタッフたちを雇用しました。
ところが、私が雇用関係のある働き方に慣れていないうえ現場にも出られなかったため、意思疎通がうまくいかず、スタッフたちは一部のお客さんを連れて去っていきました。育児で休んでいて収入がないのに賃料やスタッフの給料を払わなければならなかったので、いつの間にか借金ができていました。
遠距離生活だった夫とも別れることになり、幼い子どもをワンオペで育てながらサロンの立て直しをし、借金を返していくというどん底の状態になりました。
お客さんの中には事情を知っていた人もいるはずです。なのにそれには一切触れず、「復帰を待っていますよ」「味方ですから」と手紙をくれた人もいました。
信じて待ってくれたお客さんのために、美容師として恩返しできることは何か。そう考えると、カットをして喜んでいただくだけでは不十分のように思えてきました。もっと技術を磨き、お客さんの悩みを解決できる美容師になりたい。夜な夜なネットで情報を調べたり、勉強会や体験会に参加したりするようになりました。
そこで知ったのが、世界初の特許技術「STEP BONE CUT(ステップボーンカット)」です。すきバサミで削がないカットの技術で、骨格を立体的にして小顔に見せる効果があるほか、スタイリングしやすく、もちがよい特徴があります。
無料セミナーを体験したその日に、発案創始者である美容家の牛尾早百合さんから直接習うため、ニューヨークに行くことを決めました。2020年1月、新型コロナウイルスが世界的に感染拡大する直前のことでした。
もちがいいカットは、お客さんがサロンに来る回数を減らすことができます。3カ月ぶりのお客さんでも「まだ大丈夫ですね!」「まとまりがいいですね」とカットする前につい声をかけてしまうくらいです。
美容院に行くたびにコンプレックスを感じるという声や、行った日はよくても次の日にはボサボサになるといったお悩みをよく聞きます。それはお客さんのせいではなくて、美容師の技術の問題です。美容院に来たときだけきれいになるのではなく、ずっときれいな状態を保てるスタイリングこそ、価値のある仕事ではないでしょうか。
ほかにも、スタイリングしやすいカットならお客さんがドライヤーを使わずに済み、電力の消費量を抑えられるなど、地球環境に優しいというメリットもあります。もともと技術を取得したくて始めましたが、サステナビリティという点でも時代に合っているカットの技術だと感じています。
新しい技術を覚えると、カットのもちのいいトリートメントはないか、根本的に髪質を良くするにはどうしたらいいか、と次々と新しいことを追求したくなる性分です。他のサロンで使っていない商品、やっていない技術が本当にお客さんのためになるのか、メーカーに電話をして成分を確認したり、自分で試したりしています。
お客さんからの評価は「非効率」
ーーお客さんにも話を聞いてみました。8年ほど谷口さんにカットを依頼しているという自営業の和田みやこさんは、谷口さんを「非効率な人」だと話します。
「香代さんはママ友で、飲み会で仲良くなってから切ってもらうようになりました。香代さんの勧めでボブにしたら気に入って、しばらくボブにしていた時期もあります。お客さんのために調べたり学んだりと常に努力をしている人なのに、そんな素振りをまったく見せません。
しかも商売っ気がなく、効率的に回す接客をしないんです。カットに集中するとしゃべらなくなるんですが、話し始めたら手ぶりが大きくなってカットする手が止まるから、こっちが心配になって『時間大丈夫?』と聞いたこともありました。早く終わらせれば予約を詰めて入れられるし、自分の時間もとれるかもしれないのに。
コロナ禍で多くのお店がつぶれる中で、サロンを拡大すると聞いたときも驚きました。『ネイリストとアイリストを募集したら予定より多く集まったから』って......。私も経営を知る立場として『やめておいたら?』と言ったんですが、赤字になるとわかっていても人のために進めるんですよね。だから値上げすると言われても、信頼できるし、必要経費だと思えます」
手間、時間、お金をかけさせない
ーー再び、谷口さんに話を聞くと......
妊娠、出産で1年ほど仕事を休んでいたとき、誰かを幸せにして感謝されることが私の幸せになっていたんだと実感しました。
雑誌に広告を載せたり、Instagramでカリスマ美容師として話題になったりすることが気になっていた時期もありました。でもやっぱり、私のことを必要としている人と出会い、その人の悩みを解決できるような仕事をしていきたいです。
お客さんとともに年齢を重ね、白髪のお悩みも多くいただくようになりました。髪は生涯、人生とともにあるものです。一時的に隠すために負担をかけ続けるような施術ではなく、手間や時間、お金をかけずに済み、その人の魅力を生かせるスタイリングを提案していきます。
自分の知識や技術や経験によって誰かを幸せにできるのであれば、ボランティアもしていきたいです。
美容師として27年、はさみを持てるうちは一生現役でやっていくつもりです。