今治生まれのタオルメーカーが「いいものを安く」を目指さない理由。「1社1社がとんがれば産地も繁栄する」
日本屈指のタオル産地・愛媛県今治市。タオルづくりの各工程に携わる小さな工場が集まり、分業体制で130年前から産業を発展させてきました。ところが1990年代、廉価な輸入タオルが台頭したことで、産地消滅の危機に瀕します。そんな中、今治生まれのタオルブランド「IKEUCHI ORGANIC(イケウチオーガニック)」は、メーカーの個性を示すビジネスを体現してきました。産地とビジネスの関係性について、池内計司代表に聞きました。
僕は大学卒業後、松下電器産業(現パナソニック)に入社し、高級オーディオ機器ブランド「Technics(テクニクス)」にプランナーとして携わりました。12年間勤めた後、家業を継ぐために1983年に故郷の今治に帰ってきました。
今治には、紡績、撚糸、染色、製織など、タオルの製造工程に関わる小さな工場が集積しています。父が1953年に設立した池内タオル工場は、欧米向けの輸出用のタオルを主力製品としていました。その後、タオルハンカチの受託生産(OEM)で事業を拡大していきました。
僕が事業を継いだ当時は、タオル生産が全盛期を迎えようとしていた頃でした。約450社が今治タオル工業組合の組合員になっていました。「若いのが帰ってきた!」と物珍しかったようで、33歳だった僕は翌年から組合の役員をすることになりました。
そこから理事を退任するまでの約20年間は、会社にいるよりも組合にいる時間のほうが長かったように思います。とにかくやることが多かった。それは、海外製のタオルの輸入が始まり、全盛期だったはずの業界があっという間に翳りを見せ始めたからです。
より安い製品に負ける
1980年代の後半から、中国やベトナムからの廉価な輸入タオルが急増し、1999年にはついに輸入タオルが国産タオルの生産量を上回りました。
組合として2001年、国内産業が圧迫されることを防ぐための緊急輸入制限措置「繊維セーフガード」を発動するよう通商産業省(当時)に要請しました。東京の霞が関に何度も通い、北京にも行って中国側と直接交渉したこともありました。
結局、3年後に繊維セーフガードの発動は見送られ、タオル業界は壊滅的な打撃を受けました。今治で組合に残ったのは約160社。今治に限らず全国の産地で、「いいものをより安く」という"良心的"なものづくりをしていた工場から次々と倒産していきました。
安さを売りにしてしまうと、もっと安いものが出てきたときに太刀打ちできない。このときにそう学びました。
繊維セーフガードの要請と並行して、タオル産地の構造改革のビジョンをまとめることになり、担当の一人になりました。当時の組合理事長から「池内がやっていることを書けよ」と言われ、このようなことを書きました。
「産地を有名にし、それぞれのメーカーが差別化し、自立していくことが必要だ」
今治は、タオルの製造工程を地域で分業している産地構造のため、担う工程によって企業の適正規模が異なります。しかし、糸を染める工場がなくなってしまったら結局、タオルを織る会社も生きてはいけません。産地を支えるためにも、1社1社がとんがって存在感を発揮していく必要があると考えたのです。
いま振り返ると、そのビジョンは池内タオルの歴史そのものになりました。
池内タオルもこの後に危機を迎えることになるんですが、「メーカーとして自立する」というビジョンが先にあったことで、むしろ思い切って別の道に舵を切ることができたのです。
赤ちゃんが食べられるタオル
池内タオルではタオルハンカチのOEMが好調でしたが、「自社でしかつくることができないものをつくりたい」「新しいことをどこよりも早くやりたい」という思いから、1989年に生まれた「エコマーク」をいち早く取得していました。
ただ、まだ環境に対する考えが浅はかな状態で動いてしまったことから、エコに関心がある人たちからダメ出しされ、環境配慮商品からいったん撤退するという苦い経験をしました。
そんな苦節を経たからこそ、「世界でいちばん安全なタオルをつくりたい」との思いは強まり、ついに1999年、自社ブランド「オーガニック120」を発表しました。僕たちが「永久定番」と呼んでいる、原料から生産までとことんこだわったオーガニックコットンタオルのシリーズです。
今度はきれいごとにならないよう、環境配慮や安全性の裏付けにも気を配りました。使用電力は100%風力発電で、染色工場からの廃水は透明に処理。農薬や枯葉剤を使用しない有機栽培の綿を使い、タオル工場では初めて食品工場の安全基準を取得しました。のちに「2073年までに赤ちゃんが食べられるタオルを創る」という行動指針を掲げる根拠となりうる品質です。
「こんな景気の悪い時代に、ブランド品よりも高いプライベートブランドのタオルを売るなんて何を考えているのか」というのが業界の見方でしたが、東京ビックサイトやアメリカの展示会への出展が決まり、海外で受賞を果たし、日本のニュース番組でも取り上げられるなど、知名度が上がっていきました。
ところが、そんな矢先に思いがけないことが起きました。
2003年8月、年商の約7割を占めていた取引先だった東京の問屋が自己破産したのです。売掛金の焦げ付きで、池内タオルは約10億円もの負債を抱えることになりました。
追加融資を受け、タオルハンカチのOEMを続ければ延命することはできますが、同じビジネスモデルを続ける限り、今後も連鎖倒産のリスクを背負い続けることになります。羽ばたき始めたばかりの自社ブランドは、前年度は700万円の売り上げしかありませんでしたが、今後の自社ブランドの可能性にかけて、民事再生法の適用を申請しました。
このときに助けてくれたのは、「オーガニック120」で池内タオルを知ってくれたお客さんたちでした。個人のファンの方が「がんばれ池内タオル!」というサイトを立ち上げてくれたり、「あと何枚タオルを買えば存続できますか?」といった応援メールを3桁近くいただいたり。自社ブランドを掲げて自立するという方向性は間違っていなかったのだと確信しました。
メーカーが前に
一方、今治タオル工業組合のほうでは2006年に「今治タオルプロジェクト」がスタートし、佐藤可士和さんによるブランディングが花開いていました。僕は民事再生法の適用を申請した2003年に理事を退いたので歯がゆい気持ちもあったのですが、おかげで今治タオルの生産量は2010年にいったん下げ止まり、産地消滅を免れることができました。
とはいえ、タオル生産量は再び減少傾向となり、2023年末の組合員は79社。厳しい状況に変わりはありません。
「今治タオルの知名度が上がったのだから、より一層メーカーが前面に出ていってもいいんじゃないか」。僕はずっと同じことを言い続けているので、組合の中では異端児かもしれません。
というのも、わが社に届くお客さんからのメールで、「今治タオルを買ったら、IKEUCHIじゃなかった」「今治タオルなのにオーガニックじゃなかった」といったお問い合わせが少なくないんです。数十のメーカーがつくっているという産地構造が知られておらず、特定の1社が今治タオルをつくっていると誤解されているのです。
今治タオルの中でも組合が定めた独自の品質基準をクリアした商品には、赤青白の「今治タオルブランド認定マーク」がついていますが、ここにはメーカー名の表記がありません。裏面の4桁の認定番号を検索すればメーカーがわかる仕組みになっています。
自分でやってみたからわかるんですが、ものづくりを一生懸命している人たちは、売ることが得意ではありません。販路を開拓するのも大変です。たとえメーカー名が前面に出なくても、今治タオルの一つとして継続的に売っていけるメリットが大きいという事情はわかります。
ただ、今治タオル79社には79通りの特徴やものづくりの理念があり、各社のタオルに対する思いも違います。うちのタオルが好きだという人が他社のタオルを買って喜ぶかどうかはわからないし、その逆もあります。だからこそ、「79社ぶんのタオルを使ってみたら初めて今治タオルがわかる」といったコミュニケーションができたら、自社だけでなく産地としても繁栄していくのではないでしょうか。
例えば、眼鏡の聖地と呼ばれている福井県鯖江市には、金子眼鏡さんをはじめ、特徴のある自社ブランドが多数あります。複数の自社ブランドがとんがった形で存在している産地はすごく強いし、熱烈なファンがついてくれるようになるはずです。
そうして、お客さんが好きなブランドを見つけたら、今度は各メーカーがレベルを上げることで、しのぎを削っていく。タオルの吸水性に関する組合の品質基準で、タオル片を水に浮かべて5秒以内に沈み始める「5秒ルール」がありますが、それを満たしたなら、次は「うちは3.5秒に挑戦する」と宣言すればいいんです。
同じ製品をつくり続けながら、見た目を変えることなく品質を上げるのはとても難しいことですが、そうすることでお客さんを飽きさせず、満足してもらい続けることができると思うんです。
もはやメーカーというより僕だけがとんがっているようですが(笑)、イケウチオーガニックは産地があるからこそ生きていけるので、産地を持続させ、全体的にレベルを高め、繁栄させなければならないという危機感を強く持っています。
産地のためにできること
産地に対してできることとして、今わが社が力を入れているのが、人材育成のための活動です。僕の母校である今治市の乃万小学校の2年生に毎年、工場見学に来てもらっています。
また、中学2年生を対象にした愛媛県の事業「えひめジョブチャレンジU-15」にも登録し、3〜5日間の職場体験を受け入れています。好きなイラストを持ってきてもらい、最終日に自分で織ってみるんです。それを職人が彩色や縫製をして仕上げ、後日届けています。
ものづくりしたい子はたくさんいるのに、地元ではどんなことをしているかがわからないから結局、都会に就職してしまいます。生まれ育った地域の産業について知ってもらうためには、ただ待っているだけではダメなんです。
中学生をお預かりしてつきっきりで指導するのは正直かなり大変なんですが、この子たちが1人でも2人でも今治の産業を誇りに感じ、いつか帰ってきてくれたら。そう願い、産地のために続けています。