流行りものはないけど暮らしがある。石見銀山から女性を元気づける、松場登美さんの「生き方産業」
世界遺産に登録され、観光客でにぎわう島根県大田市の石見銀山。この地でライフスタイルブランド「石見銀山 群言堂」を夫とともに創業した松場登美さんは、いま74歳。夫とは町内で「なかよし別居」し、自ら改修した古民家で暮らしています。「長男の嫁」として地方に嫁いだ女性のステレオタイプとはまったく違う道を行く登美さんに聞きました。「どうしたら、そんな自由な生き方ができるんですか?」
世界遺産・石見銀山遺跡で知られる島根県大田市大森町。人口約400人の小さな町には昔の面影を残す古民家が立ち並び、観光地でありながら、人々が地域に根ざした暮らしを営んでいます。
松場登美さんが、夫の松場大吉さんの故郷であるここ大森町に住み始めたのは、1981年のことでした。
夫妻は町内の古民家を改修し、1989年に群言堂の前身となる生活雑貨ブランド「BURA HOUSE」をオープンしました。1994年にアパレルブランド「群言堂」を立ち上げ、いまはライフスタイルブランドとして石見銀山の本店のほか、全国約30店舗とECで展開しています。
ビジネスパートナーでもある夫妻は約20年前から、徒歩3分の距離にある別々の家で暮らしています。登美さんが1789年に建てられた武家屋敷「他郷阿部家」に住みながら自らの手で改修するため、お互いの生活を尊重した「なかよし別居」を選択したのです。
登美さんの毎日は、阿部家の宿泊客と夕食をともにしたり、家族や群言堂のスタッフのために食事をつくったり、「老婆の休日」と名付けた町内の友人との女子会を楽しんだり、Netflixでお気に入りの映画を観たり。
「何が本当の幸せなのか、豊かさってどういうことなのかを、今はもう確信できているんです」と、登美さんはかみしめるように語ります。
一生ここで暮らすのであれば
私が大森町に住み始めた43年前は、鉱山が閉山後、過疎高齢化して衰退の一途をたどっていました。若者はほとんど都会に出ていき、観光客なんてほぼいない。まさにどん底のような状態でした。
「こんな田舎に嫁いできて、落ち込みませんでしたか」とよく聞かれるんですが、正直な話、私は最初から「なんて素敵なところだろう」と思っていたんですよ。むしろ、ここにきてから人生が拓けたんです。
当時、世の中は経済成長のまっただ中。テレビで新しい情報がどんどん入ってきて、多くの人たちが流行のものに飛びついたり海外ブランドに熱を上げたりする様子に、私は「なにか違う」と感じていました。
ここには流行のものはない代わりに、自然が豊かで、昔ながらの暮らしが連綿と続いている。口うるさいけれど親切な人たちがいて、近所の人とのコミュニティもしっかりしていて、都会よりは私の肌に合ったんですね。
もちろん不便なことも多いですし、私は車の運転ができないので、町内という小さな社会の中だけで生きていかなければなりませんでした。事情があってあまり歓迎されない嫁という立場で来たので、最初は「いいお嫁さんに見られたい」「いいお母さんだと言ってもらいたい」というプレッシャーがないわけではありませんでした。それまで仕事も生活も自由奔放にしてきただけに、厚くて高い壁を感じることもありました。
ただ、もともとの性格が人に合わせるタイプではないので、「一生ここで暮らすのであれば、自分らしい生き方がしたい」と、逆に強く思うようになりましたね。そして、ずいぶんと突拍子もないことをやってきたと思いますよ(笑)
スカートを踏んでいたのは自分
「シュプレヒコール事件」と呼んでいますけど、1990年2月2日でしたかね。隣町に大きな観光施設ができることに対抗して、「私は大森が好きだ!」「私は戦うぞ!」と友人たち数人と大声で宣言しながら町を歩いたんです。
このあたりでかつてそういうことをした人はおらず、異例でした。でも、誰かが自分のスカートを踏んでいると思ったら、実は踏んでいたのは自分だったんです。自分を最も邪魔していたのは自分の意識だったんだ、とそのときに気がつきました。
私は幼少の頃から変わり者で、自分なりの価値観が強くあったのですが、自分らしくありたいと求めている人は、私に限らず多くいるはずです。いわゆる常識に縛られていると「なにか違う」と思っても声に出して言いづらいから、表に出ていないだけなんですね。
特に私と同年代の女性は、視野を広める経験を制限されてきたように感じます。大森町で「鄙(ひな)のひな祭り」というシンポジウムを10年間やったことで、女性たちはみんな同じような思いを抱えていると実感しました。自分らしく自由に生きたいのに、一歩を踏み出せなくて歯がゆいという思いです。
「鄙のひな祭り」は「田舎に暮らす女性の意識を高め、より豊かな暮らしを考える」をテーマにしたシンポジウムで、ゲストの話を聞いたあとは、男性たちがエプロンをして食事の準備をして、女性たちは食べて飲んで言いたい放題の宴会が始まります。
女性たちと語り合ううちに、私自身も含めて視野が狭かったがゆえの悩みが解消されていきました。気になっていた近所の目や、こうあらなければならないというこだわりなど、どうでもいいことのように思えてきましたね。
「鄙のひな祭り」が10年目の最終回のときに、大宴会をしている私たちの様子を見た中国人の友人に「思いつく言葉を書いてみて」と言ったら、そこに落ちていた古い戸板に「納川(のうせん)」という字を書いてくれました。
「納川」って、海のことなんです。
海は、異質な川をたくさん飲み込んでできている。異質な人たちのいいところを自分のものにすることによって、海のように広く、深く、美しくなれるという、素晴らしい言葉だったんですね。この書は、いまも他郷阿部家の玄関に飾っています。
小さな町の女性を勇気づける
大森町に住み始めた頃は、山の中腹に自分だけの居場所を見つけ、そこから町並みを眺めては「ここならやっていける」と勇気を奮い立たせていたときもありました。
でも、今となってはつらいことがなくなって、山に上ることもなくなりましたね。年々「なぜあんなことにこだわっていたんだろう」と思うくらい、どうでもよくなって楽になってくるんです(笑)。年齢を重ねるのは素晴らしいことだと最近、思いますね。
若手の女性経営者と話すと、以前の自分と同じように悩んでいる人が少なくありません。ある方に「登美さんがやっていることは、小さな町の女性を勇気づける」と言われたことがあります。
私には大きな資本があったわけでも、特別な技術を持っていたわけでも、恵まれた環境があったわけでもありません。地方の田舎に嫁ぎ、自分のやりたいことを進めてきました。結局、行動を起こしさえすれば誰にでもできることを、私はやってきただけなんですね。
ただ、人との出会いには本当に恵まれました。そのご縁を広げることで、いろいろなことがよい方向に進んできました。よくスタッフにも話している柳生家の家訓を改めて思い出します。
「小才は縁に出会って縁に気づかず、中才は縁に気づいて縁を生かさず、大才は袖すり合った縁をも生かす」(戦国時代の剣術家、柳生宗矩)
「なかよし別居」という選択
私が「自由に生きていける」と確信できたのは、大吉さんという夫との出会い、石見銀山という地域との出会い、他郷阿部家との出会い、この3つの出会いのおかげです。それぞれが「あ、これでいいんだ」と自分の価値観を納得させてくれるものでした。
他郷阿部家は、234年前に建てられた武家屋敷です。誰が見てもボロボロで、誰も買いたがらない屋敷を買って、そこに住みながらぼちぼちと地元の職人さんたちとともに直し始めました。私が阿部家に住み始めたことで、夫とは20年ほど前から別居しています。
夫は、私のやりたいことを尊重してくれる最良のパートナーです。人生はお互い一度きりで、今の時間は今しかないわけだから、今を楽しまなければもったいない。そういうことを理解し合えた結果の「なかよし別居」でした。そんな私たち夫婦の関係を「信頼と自立」と言ってくださった方がいます。
阿部家を自分の手で改修し、誰かのために食事をつくる。頭を働かせ、手を動かして、何かを形にする営みを日々繰り返すことで、何が自分にとって本当の幸せなのかをはっきりと確信し、豊かさってどういうことなのかも自分の中で腑に落ちてきたように思います。
何も売らない空間
人は、気持ちのいい場所や元気の出る場所、美しい場所に足を向けます。そう感じていただける場所をつくりたくて1989年、30代後半で夫とオープンしたのが、現在の群言堂本店となるBURA HOUSEです。
私たちは、昔から引き継がれてきた日本の暮らしや文化の良さを再認識したうえで、未来につなげていく「復故創新」を目指しています。そのひとつが「非効率なことを大事にしよう」という考え方です。
都会に行くとビジネスは効率が優先されがちで、坪単価いくらの売上が求められます。ここでは広い敷地をめいっぱい使い、広い庭をつくり、お店の2階は何も販売しないスペースにして、ゆったりとした空間そのものを楽しんでいただけることを大事にしました。
また、ものの価値も再定義しています。私はテキスタイルから服をつくる仕事を何十年もしてきましたが、市場に流れるものは安価なものが多くなりました。高ければいいというものでもないですが、貧困にあえぐ国の環境汚染や恵まれない労働環境などの犠牲のうえに安価が成り立っていることもあります。コストを下げるため大量に生産して大量に廃棄をしていることも問題です。
人間がこんな状況をつくり出していいのかという疑問がありましたから、群言堂では日本の地方に残っている産地と手を組んで、安くはないけれど愛着をもって長く使っていただけるものづくりをしています。
美しいものを求めていく
群言堂は「衣・食・住・美」を通して「根のある暮らし」を楽しむライフスタイルを提案しています。「衣食住」に「美」がついているんです。
私は、美しいかどうかをとても大事な物差しにしています。正しいか正しくないかだと議論になるけれど、美しいものというのは誰にでもスッと入っていける力があり、理屈を言わなくても一瞬にして直感で人間が感じることができるものだから。
高校時代、美術部で油絵を描いていたときに恩師からこう言われました。
「絵はがきのような綺麗な絵を描くな。たとえ線がゆがんでも絵の具がにじんでも、魂を揺さぶるような美しい絵を描け」
それから「綺麗」と「美しい」は違う概念だととらえています。
いま日本人は、「綺麗」なものでは飽き足らなくなるほどに多くのものを手に入れています。一方で、本当に「美しい」ものを手に入れることはできているでしょうか。商品やサービスの見た目だけでなく、つくり手の考え方やつくるプロセスまで、すべてを汲んで美しいといえるものです。
「生き方」が産業になる
ある大学の先生が20年ほど前、私たちのことを「石見銀山の生き方産業」と名付けてくださったんです。雑貨業でもなくアパレルでもなく、私たち夫婦の生き方がひとつの産業を成しているからということでした。
石見銀山遺跡とその文化的景観は、2007年に世界文化遺産に登録されました。
その先生から「せっかく世界遺産になったんだから、世界標準になるようなライフスタイルを大森町でつくりあげてほしい。イタリアの小さな町から、アンチファストフードに端を発して『スローフード』という概念が世界中に広がったように」と背中を押されました。
未来につながる「生き方」をここ石見銀山から発信し続けていけば、たとえ地球の裏側であっても共感してくれる人とつながって、大きく世界が変わるときがくるんじゃないかと考えています。
そのためには未来に悪い影響を与えないような暮らしをしつつ、あまり堅苦しく考えるのではなく、自分自身が楽しむこともまた大切にしています。
時代や環境によってどうなるかは誰にもわからないので、いま現在、自分の生き方が意味を感じられるものにしたいし、自分に関わる人の人生も幸せで楽しいものになれば、これほどうれしいことはありません。
また1軒、古いおうちを直しています。あちこち工夫しながら人が集う空間をつくっていくことが楽しくて仕方ありません。
毎晩、阿部家でお客様と一緒に食事をしていて、もう1万5000人近い方と食卓を囲みました。世の中の流れと違うようなことでも、お話してみたら、共感してくださったり、喜んでくださったり。どなたかが「こんな生き方もまた、楽しそうだな」と思ってくれたら、そこが始まりです。
環境問題や戦争など、時代は危険な方向に向かっているように見えるけれど、人類は本質的なことに気づき始めているんじゃないか、と明るい兆候も感じます。私がここでやっていることは小さな流れかもしれないけれど、必ず大きな流れになると信じています。