園児2人の幼稚園を再生し、人口400人の町で奇跡のベビーラッシュ。5児の母が語る、石見銀山の親たちが守り抜いた保育
世界遺産・石見銀山の町並みに佇む、一軒の武家屋敷。のれんの奥からこどもたちの笑い声が聞こえると、通りかかる観光客が「こんなところに保育園が?」と驚きます。保育園と小学生の放課後児童クラブが併設された園舎には、縁側や五右衛門風呂、かまどがあり、時が巻き戻ったような雰囲気。一時は閉園の岐路に立たされたこともあるこの町の保育を守り抜いたのは、子育て中の親たちでした。
江戸時代の武家屋敷や代官所跡など歴史的な建造物が面影を残す、島根県大田市の大森町。石見銀山観光を楽しむ人たちで連日にぎわっていますが、町内の住宅では日常の暮らしが営まれており、子育てしながら働く親たちもいます。
2023年4月、大森町の中心部にある国史跡・渡辺家住宅の敷地内に「大森さくら保育園」が移転しました。同時に、武家屋敷の建物内に学童保育の「おおもり児童クラブ渡辺家」が開設しました。
【関連記事】職人が床下にしのばせた落書きの意味。「いつか君たちの時代に」 丁寧な手仕事を見せる保育園
通っている48人のこどもの約6割は、移住してきた世帯。昔ながらの暮らしや自然に触れることができる独自の保育内容が注目され、県外から受け入れている「保育園留学」も人気です。
しかし、大森町に若い世代の移住が増えたのは、ここ10年ほどのこと。2014年には園児が2人だけになり、園存続の危機に瀕していました。その後、人口約400人の町で起きた「ベビーラッシュ」は、"小さな奇跡の物語"としてNHKでも特集されました。
「最初は、子育て支援をするという感覚ではありませんでした。子育て中の親たちをつなげるために始めた活動が、ここで安心して子育てできるという安心感となり、移住や出生が増えたんです」
そう話すのは、社会福祉法人石見銀山つむぐひびの理事をつとめる松場奈緒子さん。園児が2人になったときの、うち1人の母親です。今は5人のこどもを育てながら保育園と学童保育を運営する松場さんに、話を聞きました。
ーー石見銀山の観光地のど真ん中にある保育園と学童保育。通っているのはこの町で暮らしている子たちですね。
保育園は定員30人で現在26人が通っており、学童保育は放課後に毎日22人ほどが利用しています。約6割が移住してきた人のこどもです。
小学生は、学校が終わるとここ渡辺家に"帰り"、こたつや長机で宿題をします。長期休みにはかまどで炊いたごはんを食べたり、川遊びをして五右衛門風呂で泥を流したりと、昔ながらの暮らしを体験しながら感性を育んでいます。
石見銀山に長期滞在する家族のために、2023年からは県外から「保育園留学」を受け入れており、すでにリピーターもいます。
ーー開設したきっかけは。
私自身、子育てに苦しんだ経験があったからです。
1人目は東京で出産しました。夫と2人だった暮らしに赤ちゃんという存在が加わったことに慣れなくて、子育ての正解がわからず、孤独でした。
2012年に大森町にUターンし、両親が創業したライフスタイルブランド「石見銀山 群言堂(以下、群言堂)」のパタンナーとして働き始めました。孤独ではなくなったのですが、東京での子育てとは別の悩みが生まれて、育児うつになってしまいました。
大森町では周りの先輩ママたちの子育てを間近で目にするので、つい比べてしまったからです。
朝ごはんをつくって小学生を送り出して未就学児を預けて仕事に行き、夕方は迎えに行ってごはんにお風呂にと、仕事も家事も育児をこなしている人の姿が見えてしまうと、「なんで自分はちゃんとできないんだろう」とプレッシャーを感じて落ち込むことが多くなってしまったんです。
仕事も育児も中途半端だと感じて、どんどん自信を失っていきました。
ーー松場さんが帰ってきたころ、大森ではこどもの数が減り続けていたそうですね。
長男は大森幼稚園に通い始めたのですが、園児が減ったことですでに2011年に大田市の助成金が打ち切られていました。大森町で義肢装具を製作している中村ブレイスさんが市と同額の寄付をしてくださり、群言堂もTシャツの売上を寄付するプロジェクトをはじめるなど、地元の企業や自治会のサポートによってなんとか園の運営を続けている状態でした。
群言堂では当時、子育てしながら働いていたのは私だけで、多くの女性は出産を機に退職していました。私があまりにも仕事と育児の両立にすったもんだしていたので、社長だった私の父の松場大吉が、3歳以下の子がいる従業員が早めに退勤できる「大吉ルール」をつくるなど、両立支援の制度を整えていきました。
企業としても社員が働き続けられるように環境整備が必要だと意識改革を進めた時期でしたが、私たち保護者も「このままでは大森からこどもがいなくなる」と危機感を募らせていました。私は群言堂、もう1人のお母さんは中村ブレイスさんで働いていたこともあって、企業の枠を超えて連携し、保護者同士も密に関わるようになりました。
3人目を妊娠中だった私は、自分の手で町の保育を守れるようになりたいと考え、通信教育で保育士の資格を取得しました。30歳を過ぎてから、まさかの国家試験を受けたんです(笑)。大森幼稚園は町で唯一こどもを預けることができる施設でしたから、2015年に小規模保育所が認可されたタイミングで運営方式を変えることに。幼稚園としては閉園し、「大森さくら保育園」に改称して認可保育園として生まれ変わりました。
ーー子育てをしながら地域の子育てにも関わっていったんですね。
こどもがいなくなるということは、保育の存続だけでなく大森町の未来に関わります。
そこで2015年に子育て支援サークル「森のどんぐりクラブ」を設立しました。のちにこどもの放課後の居場所事業にも発展していくのですが、当初は子育て支援をするという意識で始めたわけではなかったんです。
閉園した大森幼稚園にはもともと「ぬのんこクラブ」という保護者会がありました。私の母たちの世代が立ち上げた、いわゆるPTAのようなクラブです。
母・松場登美は1989年に、群言堂の前身となる生活雑貨ブランド「BURA HOUSE」を大森町で立ち上げました。当時は、店の縫製で余った端切れを近所の主婦たちがきれいに折り畳んでパッチワーク用に売り出し、その収入でこどもたちにプールや教育用品を買っていたんです。
私がUターンしてきた時にはその仕組みはなくなっていたのですが、プラスチックトレイのリサイクルやベルマーク集めを細々と続けたり、町内行事でお茶出しをしたりしていました。働く母親が増えた時代に、仕事と両立するにはあまり現実的とはいえない活動内容で、楽しさややりがいの面でも、正直「うーん......」という感覚がありました。
ただ、世間話や子育ての相談ができるという面ではとても貴重な場でした。そこで、活動内容を今の時代に合わせ、子育てを通してまちづくりができる団体にしよう、と私が引き継ぐことになりました。
もとは大森幼稚園の保護者会でしたが、町を見渡すと、親の職業や年代、こどもの年齢や幼稚園に通っているかどうかということを超えて、保護者同士がつながりをもてる場が必要だと感じていたという背景もありました。
特に移住者が増えるとともに、結婚して縁もゆかりもない大森町に住むことになった「お嫁さん」が増えてきました。昔ならまず婦人会に入り、自治会やお寺を通して顔見知りになることもできましたが、そうした縁が薄れた今は孤立してしまいがちです。寂しさの中で子育てに奮闘し、困ったときに頼れる人がいないという人たちを目の当たりにしていました。
私も育児のコンプレックスを経験したので、いきなり「子育てを支援します」と言われると身構えてしまう気持ちもわかります。なので、まずは保護者が楽しみながら、横だけではなく縦や斜めのつながりをつくっていけたらという思いで、イベントを企画しました。
「子育てサロン」として、保健師さんや歯科衛生士さんら専門職の話を聞くことだけでなく、茶道が上手な女性を招いてお茶会をしたり、ベビーカーでみんなで町を散歩してコーヒーを飲みに行ったり、町民運動会に声をかけ合って参加したり、町民も子育て家庭も一緒に聴ける音楽会を開いたりと、町の暮らしを楽しむ機会を中心にしました。
多くの母親たちは働いていますから、育児休業中に充実した時間を過ごし、人とのつながりをつくっておけば、仕事に復帰した後に何か困りごとがあっても頼れる先ができるはず。いったん機会をつくると、参加した人たちからどんどん輪が広がっていきました。
また、母親が安心するためには、父親たちがつながることも重要です。ピザパーティーを企画したところ、ビール片手に飲食するうちに父親同士が仲良くなって子育ての話で盛り上がり、休日にお互いにこどもの面倒を見合うなど、こちらが意図しないところにまで波及していく効果もありました。
ーー2012年からの10年間で32世帯が転入し、出生数は43人。人口約400人の町で「ベビーラッシュが起きた」と母親の登美さんが著書に書いています。何が子育て世代を大森町に惹きつけるのでしょう。
実は私は、中学校に進学するタイミングで大森町を出たんです。小学校までしか暮らしていなかったのに、またこうして引き寄せられるように帰ってきた理由は、親の背中を見ていた影響が大きいと感じます。母から言われた「この町を出てみないとこの町の良さはわからない」という言葉の通りになりました。
私が幼い頃から、母は起業者としてバリバリ仕事をしながらも一方で 「ぬのんこクラブ」の活動をしていましたし、父も母も企業や行政の人とお酒を酌み交わしながら、まちづくりについて熱い議論を交わしていました。思春期や反抗期の頃は、そんな煙たいおじさんたちが嫌いで、帰ってきてからも若干、鬱陶しいなと思うこともありますけど(笑)、根っこのところではこの町が好きで、そんな大人たちを尊敬しています。この町に誇りを持っていることが伝わってくるからです。
もう一つ、印象的だったのは長男の言葉でした。地域のお祭りの準備で、軒先に飾る花飾りを地域の人たちがつくる慣習があります。長男が4歳の頃、町に花飾りを生けていく女性たちの姿を眺めて立ち止まったので、仕事と家事と育児が分刻みで忙しくてイライラしていた私は「早く帰ってご飯にするよ」と思わず手を引っ張りました。すると彼は「僕も手伝う。僕だって人の役に立ちたいんだ!」と言ったんです。
ハッとしました。こんな小さな子でも、この町のために、この小さなコミュニティのために、ご褒美があるなしにかかわらず、自分にできることや自分にしかできないことを考えて行動に移そうとしているのだと。その小さな背中がすごく頼もしく見えましたし、こどもたちがそう思えるような町をつくっていきたいと強く思いました。
暮らす場所のことをポジティブにとらえ、幸せを感じている大人の姿を見て育ったら、こどもはたとえ大森町にいる時間が長くても短くても、大森町に帰ってきてもこなくても、ふるさとがアイデンティティの一つになり、人生の大きな支えになっていくのではないでしょうか。ですから、子育て支援にとどまらず、未来のためのまちづくりのアクションとして活動していきたいと思っています。