殺風景な部屋を一輪の花が変えたから。"空気"の価値を生み出す78歳、目標は寄付100億円
数十億〜数百億円のお金を動かしているのに、自身は報酬ゼロ。目標は生涯で100億円を寄付すること。寺田倉庫の社長として天王洲エリアをアートの街に変身させるなど大胆な手法で企業を再生してきた中野善壽さんが、78歳にして新たな挑戦を進めています。扱っているのは、モノではなく"空気"。桁違いなスケールのビジネスは、いつも"空気を読む"ことからはじまっていました。
海面が穏やかに波打つ相模湾に夕日が沈むと、窓の外は闇に包まれる。テーブルの上に置かれた手漉き和紙のランプシェードからこぼれる光を見つめながら、2人きりの時間を慈しむーー。
全国有数の観光地である静岡県熱海市に、知る人ぞ知る、雰囲気にこだわったホテルがありました。ただ、その業態として営業していたのは2021年11月からわずか1年程度。米投資ファンドの関係会社への売却が成功したからです。
ここは、1973年に開業したリゾート「ホテルニューアカオ」が保有していた宿泊施設の2棟。老朽化して赤字経営となり、100億円を超える負債を抱えた同社の起死回生を任されたのが中野善壽さんでした。
空気にお金を払う
2021年8月にホテルニューアカオのCEOに就任した中野さんは、同10月に「ACAO SPA & RESORT 株式会社」に社名を変更。同社が保有する約70万平方メートルの敷地内にある観光庭園やリゾート施設の中から、宿泊事業に真っ先にメスを入れました。
もともと1泊2食付き1人1万2000円ほどで大手宿泊予約サイトに掲載されていた「よくある観光地のホテル」を「ラグジュアリー感あるホテル」にリニューアル。ツインの部屋をなくしてすべてダブルベッドに変更し、素泊まりで1室6万円に設定しました。
HOTEL ACAO館内は、美術館のようにたくさんの作品が飾られています。ご滞在中は、窓から見えるオーシャンビューと、館内に展示された作品のどちらもお楽しみ頂けます。是非、日頃の疲れを癒しにいらしてください。
— ACAO SPA & RESORT (@ACAO_official_) October 28, 2022
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スタッフと顔を合わせなくて済むようチェックインの手間をなくし、外出しなくても部屋で食事を楽しめるようにテーブルは大きめに。ワインのラインナップに10万円のボトルを加え、こだわりの日本酒も入れました。割引などのサービスはあえて廃止し、東京から訪れる富裕層にターゲットを絞りました。
クリスマスには「恋のはじまりプラン」として星空電球やディナーコースのついたスーペリアルーム宿泊限定プランを1室11万円で販売しました。
「6万円のルームレートに、10万円のシャンパン、11万円のクリスマスプラン。なぜこの値段かというと、この値段に価値を見出す人がいるからです」
中野さんはこう言い切ります。
「ここでは、モノではなく誰かと一緒にいる空気にお金が払われています。乾杯するシャンパンは10万円である必要があり、クリスマスに東京から熱海まで来たのならば11万円の部屋でなければならない理由がある。私たちの役割は、その空気感を演出して価値をつけることです」
実際、このリニューアルで客単価が上がったことで、稼働率は上がらなくても黒字になったといいます。そして口コミでリピーターが増えてきたころ、売却。借金の返済にあてました。
場所の声を聴く
築50年で赤字経営だったホテルをたった1年で売却できるほど価値を上げるために、中野さんは何をしたのでしょうか。
中野さんはホテルニューアカオの再建を任されたとき、まず広大な敷地を歩いて回ったり、ホテルの部屋で座ってみたりしたといいます。
「観光庭園には人の手が入っていないところがありました。天然の木は生存戦略のために自ら隣の木と距離をとるので、木と木の間を風がきれいに抜けるんです。でも、風が流れているのにたまり感もある。それは相模湾の周りにすり鉢状に山が連なっていて、風の流れがほぼ一定だから。独特の自然のすごさがある土地なんです」
もともとある資産にはどんな価値があるか。より価値を高めるにはどうしたらいいか。中野さんは空間と対話しながら思考をめぐらせます。
僕は特別なことは何もしていません。才能のあるイノベーターでもありません。やったことといえば、ただこの場所に立って、ボーッと何時間も過ごし、声を聴くのです。
誰の声かというと、この場所が語りかけて来る声です。
「ああ、この場所は、もっとこういうふうに生かされたいと思っているんだな」と感じる。
(出典:『ぜんぶ、すてれば』)
「部屋からずっと海を見ていたら、夕方から光の色が変化していき、夜は真っ暗闇になります。そして朝日が昇ると部屋に直接陽が差してくるので、とても美しい」
「もし熱海まで来てこの部屋から海を見るなら一人では嫌だよな、と思ったんです。だから、カップルのニーズは間違いなくあると」
ホテルは2022年10月に売却しましたが、観光庭園はACAO FORESTとしてリニューアルし、地元の食材を使うレストランやセレクトショップが入った商業施設を2022年春にオープンしています。
中野さんは2019年まで社長兼CEOをつとめていた寺田倉庫でも、物流の拠点だった天王洲エリアの倉庫群をアートの視点で再開発し、文化を感じる街に一変させました。
アジアの富裕層を対象に美術品やワインなど貴重品の保管事業に乗り出す一方、誰もが気軽に箱単位で倉庫をもてる宅配型トランクルーム「minikura(ミニクラ)」をはじめました。
資産がもつ本来の価値をとらえ直す。そのビジネス手法の原点は、小売業の経験にあるといいます。
価格はオンリーワンの証
中野さんは大学卒業後、伊勢丹に入社。1973年、鈴屋に転職し、パリやニューヨークでブランドの立ち上げに携わりました。
「SUZUYAでセーターを買うと2900円だけど、パリで立ち上げたブランドの輸入品を買うと1万8000円。原価はSUZUYAのほうが高いのに、パリの商品だということに付加価値がつくからです」
「新しくそのブランドを買う人にとっては、値段がそのままブランドの価値になります。値段が高いということは安心感であり誇りであり、オンリーワンの証になるんです」
高度経済成長期からバブル期というファッション全盛期に国内外の最前線で買い付けを経験したからこそ、その後に長く続く不況や物価高騰の時代においても「人は何にどれだけお金を払うのか」を見極めてきた中野さん。
「日本人は『いいものを安く買う』のが良いことだというインプットができてしまっているため、売り手のほうも本来の価値よりも安い値段を提示してしまうことがあります。その努力をすればするほど、どんどん値段が下がって、どんどんブランド価値が落ちてしまう。価値を高めていく発想が必要なんです」
しかし自身は持たない
一方で、中野さん自身は家も車も洋服も持たないミニマリストとして知られています。台湾の賃貸住宅で暮らし、日本で仕事をするときはホテルや友人宅を利用します。携帯電話はガラケーで、持ち歩かないことも。荷物も暮らしも最小限をモットーとしています。
「土とかコンクリートとか株は、食えないから」
土地にも建物にも会社にも執着なし。CEOとしての報酬も受け取っていません。
「会社というのは誰かが専有するものではないし、コストがかかるので所有するにはリスクが大きい。じゃあ会社って何のために存在するのか。僕は、社員を幸せにするための道具だと思っています」
ACAO SPA & RESORTでは、350万円だった社員の平均年収が860万円に。年俸3000万円の社員もおり、首都圏などからの新幹線通勤費を全額補助する形で新規採用もかけています。
「リモートワークができるできないとか、そんなちっちゃな話はどうでもいい。年功序列や長時間労働を廃止し、午後3時には仕事が終わるような働き方にしたい。会社にできることは、時間とお金を社員に提供すること。その時間とお金を使って社員それぞれが自分なりの幸せを実現できるように」
空気を変えた一輪の花
中野さんの視点は自社だけにとどまりません。会社は社員を幸せにする道具、ビジネスはより多くの人を幸せにするための手段だとして、27歳のときから国内外のさまざまな団体への寄付を続けています。「生涯で100億円を寄付することが目標」と話します。
「こんな社会にしたいというビジョンがあるわけではなく、寄付先は思いつきのこともあるんです。お金は持たずに回さないと意味がないと思っているから。それに僕はいろいろな人にお世話になりながら生きてきたので、恩返しがしたいからです」
中野さんは祖父母のもとで幼少期を過ごしましたが、小学校高学年のときに祖父母が相次いで他界し、親戚に預けられました。海外で仕事をするときは、現地で出会った人に何度となく助けられてきたといいます。
最初の就職先となった伊勢丹を紹介してくれたのは、近所で花屋を経営していた年配の女性でした。中野さんが大学生のときに毎日欠かさず立ち寄るうちに顔なじみになり、閉店間際に花をくれるようになり、就職先がまだ決まっていないと言うと親戚の勤め先を紹介してくれたのでした。
大学で野球に明け暮れていた中野さん。住んでいたのは野球部の寮で、1年生から4年生までの4人部屋でした。
「グラウンドで汗まみれになって、寮に帰ると体重を増やすために地獄のような量の飯を食わされて。吐きそうになって部屋に戻ってきたら臭いし、汚いし、先輩もいるしで、一瞬たりともホッとできない。だからせめて彩りを、と毎日花を一輪だけ買って帰っていたんです」
子どものころに祖母がしていた生け花を思い出し、二段ベッドの枕元の隙間に花を挿しました。身体を起こすと殺風景な部屋だけれど、寝転がると視線の端に花が揺らぐ自分だけの世界になります。一輪の花によって、そこだけ空気を変えることができたのです。
「豊かさというのは物理的なものではなくて、そこに漂う空気感だと思っています」
熱海ではいま、急ピッチで再開発が進んでいます。東京から新幹線で35分の観光地は、アーティストが住み、ワーケーションができ、アートや文化を支援するパトロンが集う街に。建築家の隈研吾さんがプロデュースする会員制のリゾートヴィラの建設も予定されています。
熱海の空気が変わる。その兆しに期待する人たちからの支援がすでにはじまっています。